映画『カポーティ』
- 2016.04.05 Tuesday
- 13:44
大学の卒論で、繊細な少年ジュエルが主人公の『遠い声、遠い部屋』について書いたときには、それほどカポーティの生い立ちに興味はなくて、プロトだのメタファーだのっていう文学的要素だけを分析していて、それはそれでおもしろい作業だったんですけど、それきりカポーティとは離れていて、ふたたびカポーティに近づいたのは、なにがきっかけだったかなと思い返してみたら、読まず嫌いだった村上春樹をちょっと好きになったころに、彼がカポーティの作品を翻訳していたり、彼の文章の中にカポーティが登場したことでした。
カポーティが子ども向けに書いた『クリスマスの思い出』(村上春樹訳。彼によるあとがきもよかったです。山本容子さんの挿絵も秀逸!)という本が気に入ってカポーティ自身の子ども時代の経験はどうだったのかということに興味を持ったこと。
まったく別の方向から入った、ハーパー・リー原作の映画『アラバマ物語』の作中に出てくる近所の男の子ディルはカポーティがモデルだと知ったこと。
こんなことあんなことから、なんとなく「呼ばれて」しまった気がして、「卒論で書いた作家の代表作を読んでいないというのは、これはどう考えてもカポーティに対しても大学で学んできた4年間に対しても不誠実なんじゃないか」と、あまり得意じゃない分野だとわかっていて『冷血』を読むことに挑みました。
『冷血』は、当時アメリカ南部でおこった一家4人の殺害事件を、カポーティが関係者におこなったインタビューをもとに、被害者側にも加害者側にも肩入れせず、事件発生から関係者らのバックグラウンド、逮捕、裁判、刑の執行までが、ひたすら詳細にリアルにひたすら淡々と描かれています。
おもしろいのは、客観的に書こうとすればするほど、作者カポーティの言外の思いがあふれでてきてしまっているところ。
これはもうぜったいにペリー(二人組み犯人のうちのひとり)に同情してるっていうのがわかる。
犯人ペリーの少年時代が、『クリスマスの思い出』や『遠い声、遠い部屋』の中のイノセントで貧しくて孤独な少年たち、つまりカポーティ自身の少年時代と被るのです。
血も涙もないような残虐な殺人を犯したペリーは、憎しみや自己防衛のためではなくて、その瞬間はほんとに「無」でどうでもよくてあとさき考えてなくて、ただただその場しのぎの現金が欲しかっただけ。
でも、これから殺す相手が少しでも苦しくないようにとか怖くないように配慮したりして、矛盾した優しさも持ち合わせている。
歌とギターが好きで絵も得意だったペリーが、なぜこんな残虐性を持ち合わせてしまったのか考えさせられます。
アイルランドとインディアンの混血で幼いときに母に捨てられ、貧困の中で兄と姉が自殺し、放浪癖のある父親に連れまわされるという複雑な家庭環境で育ったペリー。
意思とは関係なく、生まれたときからのさまざまな環境や要因によって、ペリーが殺人の場に連れてこられてしまった、という印象を受けるのです。気づいたらここに居た。みたいな。
つまり、自分も幼い頃に母親に捨てられ、親戚を転々としたカポーティは、ちょっとボタンを掛け違えていれば自分がペリーになった可能性もあると感じていたんじゃないかと感じました。
それは、のちに知ったカポーティのこの言葉が裏づけしているように思うのです。
「ぼくとペリー・スミスは同じ家で生まれた。ある時、彼は家の裏口から出ていき、ぼくは表玄関から出て行った」。
で、『カポーティ』。
『冷血』を読み終えるまで、観るのを控えていましたので、やっと観られました。
『冷血』執筆時のカポーティとペリーの関係に重きがおかれているんですが、わたしが上に書いたような単純な同情だけではなくて、カポーティのはげしい葛藤や複雑な感情や幼稚性が作品の中で見え隠れするところがすごくて、おもしろかったです。
オープニングが、きらびやかな社交界のパーティで話の輪の真ん中にいるカポーティで、これがすでにちょっとカポーティが滑ってるというか、浮いた印象。
でも話術巧みなので、人気者です。
主材となった殺人事件に興味を持ったカポーティと現地に同行するのが幼友達のハーパー・リーで『アラバマ物語』好きなわたしとしては、これがあのお転婆スカウトだと思うと感慨深いのですが、ハーパー・リー(作中では「ネル」というニックネームで呼ばれていました)はお姉さん的存在で、冷静かつあたかかくカポーティを見守っています。
カポーティが子ども向けに書いた『クリスマスの思い出』(村上春樹訳。彼によるあとがきもよかったです。山本容子さんの挿絵も秀逸!)という本が気に入ってカポーティ自身の子ども時代の経験はどうだったのかということに興味を持ったこと。
まったく別の方向から入った、ハーパー・リー原作の映画『アラバマ物語』の作中に出てくる近所の男の子ディルはカポーティがモデルだと知ったこと。
こんなことあんなことから、なんとなく「呼ばれて」しまった気がして、「卒論で書いた作家の代表作を読んでいないというのは、これはどう考えてもカポーティに対しても大学で学んできた4年間に対しても不誠実なんじゃないか」と、あまり得意じゃない分野だとわかっていて『冷血』を読むことに挑みました。
『冷血』は、当時アメリカ南部でおこった一家4人の殺害事件を、カポーティが関係者におこなったインタビューをもとに、被害者側にも加害者側にも肩入れせず、事件発生から関係者らのバックグラウンド、逮捕、裁判、刑の執行までが、ひたすら詳細にリアルにひたすら淡々と描かれています。
おもしろいのは、客観的に書こうとすればするほど、作者カポーティの言外の思いがあふれでてきてしまっているところ。
これはもうぜったいにペリー(二人組み犯人のうちのひとり)に同情してるっていうのがわかる。
犯人ペリーの少年時代が、『クリスマスの思い出』や『遠い声、遠い部屋』の中のイノセントで貧しくて孤独な少年たち、つまりカポーティ自身の少年時代と被るのです。
血も涙もないような残虐な殺人を犯したペリーは、憎しみや自己防衛のためではなくて、その瞬間はほんとに「無」でどうでもよくてあとさき考えてなくて、ただただその場しのぎの現金が欲しかっただけ。
でも、これから殺す相手が少しでも苦しくないようにとか怖くないように配慮したりして、矛盾した優しさも持ち合わせている。
歌とギターが好きで絵も得意だったペリーが、なぜこんな残虐性を持ち合わせてしまったのか考えさせられます。
アイルランドとインディアンの混血で幼いときに母に捨てられ、貧困の中で兄と姉が自殺し、放浪癖のある父親に連れまわされるという複雑な家庭環境で育ったペリー。
意思とは関係なく、生まれたときからのさまざまな環境や要因によって、ペリーが殺人の場に連れてこられてしまった、という印象を受けるのです。気づいたらここに居た。みたいな。
つまり、自分も幼い頃に母親に捨てられ、親戚を転々としたカポーティは、ちょっとボタンを掛け違えていれば自分がペリーになった可能性もあると感じていたんじゃないかと感じました。
それは、のちに知ったカポーティのこの言葉が裏づけしているように思うのです。
「ぼくとペリー・スミスは同じ家で生まれた。ある時、彼は家の裏口から出ていき、ぼくは表玄関から出て行った」。
で、『カポーティ』。
『冷血』を読み終えるまで、観るのを控えていましたので、やっと観られました。
『冷血』執筆時のカポーティとペリーの関係に重きがおかれているんですが、わたしが上に書いたような単純な同情だけではなくて、カポーティのはげしい葛藤や複雑な感情や幼稚性が作品の中で見え隠れするところがすごくて、おもしろかったです。
オープニングが、きらびやかな社交界のパーティで話の輪の真ん中にいるカポーティで、これがすでにちょっとカポーティが滑ってるというか、浮いた印象。
でも話術巧みなので、人気者です。
主材となった殺人事件に興味を持ったカポーティと現地に同行するのが幼友達のハーパー・リーで『アラバマ物語』好きなわたしとしては、これがあのお転婆スカウトだと思うと感慨深いのですが、ハーパー・リー(作中では「ネル」というニックネームで呼ばれていました)はお姉さん的存在で、冷静かつあたかかくカポーティを見守っています。
エキセントリックなカポーティには、派手さがなく堅実でノーマルなネルの存在が必要だったのだと思います。
実務的にというよりも、精神的なよりどことして。
カポーティはゲイで、男性の恋人がいましたが、こちらはカポーティにとってそれほど意義深い関係としては描かれていません。
カポーティは文章を暗記する能力に秀でていて綿密なインタビューをメモも録音もなしでおこなったというからやはりある種の天才なのでしょう。
ただ、難しい取材相手との約束をとりつけるために、その奥さんにオレ有名女優と友だちなんだーとかいう自慢話をしたり、お金を渡して人に自分を褒めさせたり、やることが子どもっぽいのですね。
加害者ペリーから話を引き出すためには、自ら彼の牢の中にまで入り、じぶんがいかにペリーを理解できる人物かということを力説し、友だちのいなかったペリーはカポーティの友情を信じ、心を開き、文通もします。
でも作品の執筆状況や『冷血』というタイトルは、ペリーに訊かれてもカポーティは、はぐらかします。
ペリーのカポーティに対する友情がピュアなのに対してカポーティのそれは打算的で不純だということを、カポーティ自身がわかっていて苦悩しながらも、傑作が書けるぞという高揚感も抑えきれないのです。
「彼を愛しているの?」とネルに訊かれ、「利用しながら愛することなんて出来ない!」と絶叫します。
そして刑が執行されなければ作品を書き終えることが出来ない、という状況になるのですが、その執行が何度か延期になり、カポーティは苦しみます。
最後、自分を友だちだと言っていたペリーの死刑執行を見とどけたときのカポーティの心中を思うとおそろしいですね。
「これでやっと完成させて出版できるぞ」なのですよ。
『冷血』というタイトルがこの犯罪をさしているのか、犯人をさしているのか、カポーティ自身をさしているのか論議されますが、「全部」と多義的に考えると深いタイトルです。
この事件を作品にし、『ノンフィクションノベル』という新ジャンルという打ちたてて大成功をおさめたカポーティですけど、ペリーの死刑執行を目の当たりにし、その死刑が新作の成功の必要条件だったということに、その後も長く苦しんだことでしょうし、そんなことになるとは執筆を決めたときには思いも寄らなかっただろうと思います。
映画の最後で「彼(ペリー)を救えなかった」と電話で泣きながらいうカポーティに、ネルは「あなたは救いたくなかったのよ」と言います。
ネル突き放しすぎでは...
でも、わたしだったら何と声をかけただろう?
というか、それ以前に、だれかを救えるかもしれないときに自分の利害が絡んだらどうする?
JUGEMテーマ:映画
実務的にというよりも、精神的なよりどことして。
カポーティはゲイで、男性の恋人がいましたが、こちらはカポーティにとってそれほど意義深い関係としては描かれていません。
カポーティは文章を暗記する能力に秀でていて綿密なインタビューをメモも録音もなしでおこなったというからやはりある種の天才なのでしょう。
ただ、難しい取材相手との約束をとりつけるために、その奥さんにオレ有名女優と友だちなんだーとかいう自慢話をしたり、お金を渡して人に自分を褒めさせたり、やることが子どもっぽいのですね。
加害者ペリーから話を引き出すためには、自ら彼の牢の中にまで入り、じぶんがいかにペリーを理解できる人物かということを力説し、友だちのいなかったペリーはカポーティの友情を信じ、心を開き、文通もします。
でも作品の執筆状況や『冷血』というタイトルは、ペリーに訊かれてもカポーティは、はぐらかします。
ペリーのカポーティに対する友情がピュアなのに対してカポーティのそれは打算的で不純だということを、カポーティ自身がわかっていて苦悩しながらも、傑作が書けるぞという高揚感も抑えきれないのです。
「彼を愛しているの?」とネルに訊かれ、「利用しながら愛することなんて出来ない!」と絶叫します。
そして刑が執行されなければ作品を書き終えることが出来ない、という状況になるのですが、その執行が何度か延期になり、カポーティは苦しみます。
最後、自分を友だちだと言っていたペリーの死刑執行を見とどけたときのカポーティの心中を思うとおそろしいですね。
「これでやっと完成させて出版できるぞ」なのですよ。
『冷血』というタイトルがこの犯罪をさしているのか、犯人をさしているのか、カポーティ自身をさしているのか論議されますが、「全部」と多義的に考えると深いタイトルです。
この事件を作品にし、『ノンフィクションノベル』という新ジャンルという打ちたてて大成功をおさめたカポーティですけど、ペリーの死刑執行を目の当たりにし、その死刑が新作の成功の必要条件だったということに、その後も長く苦しんだことでしょうし、そんなことになるとは執筆を決めたときには思いも寄らなかっただろうと思います。
映画の最後で「彼(ペリー)を救えなかった」と電話で泣きながらいうカポーティに、ネルは「あなたは救いたくなかったのよ」と言います。
ネル突き放しすぎでは...
でも、わたしだったら何と声をかけただろう?
というか、それ以前に、だれかを救えるかもしれないときに自分の利害が絡んだらどうする?
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