『抱く女』 桐野夏生

  • 2015.09.11 Friday
  • 16:41


 時代背景はあさま山荘事件のあった1972年で、吉祥寺のS大学(成蹊大学ね)に通う直子が主人公。
まだいまよりももっと猥雑さの多く残る吉祥寺の雀荘やジャズ喫茶で遊んだりバイトしたりいろんな男の人と寝たりしているうちにたまたま声をかけられた男に連れて行かれたバーでドラッグを経験し、そのバーのトイレで気絶していたところを助けてくれた女性ジャズボーカリストについていったライブで知り合ったバンドの付き人を好きになり、親友の元カレが自殺してしまい、二人の兄のうち下の兄が内ゲバで殺されかけ、その兄が息をひきとったその日に大学をやめて好きな人と暮らすために家を出て行く、というお話。
70年代の時代の雰囲気や若い人たちの考え方や風俗のことをこの本を読むまでわたしはよくわかっていなくて、それがなんとなくでもわかったのがよかったかな。1951年生まれの桐野夏生と同年代の作家や文化人たちが、どんな青春時代を生きてきたのかを知ることは、今後の読書にも少なからず深みを与えてくれると思うから。ほとんど
大学生がふつうに「セクト」とか「内ゲバ」とかいう単語を発していた時代って想像するのは少したいへんだけれど。

わたしがこれを書いているこのとき、ついこのあいだ参議院を通過してしまった安保関連法制に反対する学生によるデモや抗議行動が全国のあらゆる年齢層の人々と野党議員まで牽引しているのだけど、その抗議行動の場にこの小説に描かれている時代の中核派の人たちが来ていたという情報があり当時のことを知らない世代の人たちに対して彼らにかかわるなという声が上がっていて、桐野さんよりも少し年下の宮沢章夫さんが中核派などの新左翼の新は新幹線の新と同様で、もうちっとも新しくなんかないんだよ、とツイッターで言ってらしたのが興味深かったし、この本をわたしが読んだタイミングがけっこうはハマっていたのではないかと思う。新左翼というのがどういう人たちなのかというのがわたしはよくわかっていなかった。内向きで密室的で最終的には自滅していった感じだったんだな。
70年代の学生運動と今の抗議行動とのいちばんの違いは、今のそれは徹底した非暴力であることと、あらゆる年代層の人々に大きな共感を生んだことだろうと思う。

こういう現代小説を読むとき、どこか自分と重ねたり共感しながら読んでいくものなんだろうけれど、たぶんわたしがこの時代に学生だったとしても直子と同じようにウーマンリブとか学生運動に冷めたスタンスでいるだろうか。
わたしのころはバブルの絶頂期だったから、恥ずかしいほど社会に対してほとんど問題意識なく遊び呆けていて、バイトやデートや学校の勉強に忙しかった。
時代が時代なら、わたしも違っていたのかな。
逆にいま女子大生だったらわたしは国会前抗議なんかに行く女子だったかな。
世の中が動くときは社会問題に関心を持たないではいられないとは思うけど。

時代の空気ということについてもうひとついうと、進歩的なことを言いながら男は女性に対する考え方は変わらず保守的だということ。
ここにも直子はやりきれなさと苛立ちを覚えている。
わたし自身も、時代がどう変わろうと男性と女性の役割的価値観ってそう簡単に変わらないと思っている。もちろん、変わらなくちゃいけないんだけど。自称リベラルな男の思い込みって自覚がないからよけいにたちが悪い。


直子の恋愛に関しては、簡単に男の子たちと寝てしまいながらぜんぜん満たされないでいる直子が、さいごにほんとうに好きな人に出会えてよかったねって思うけど、でもやはり20歳の未熟さがちょっと危うい。リアルで等身大の若い女性を描くことには成功しているのかもしれないけれど、好きになった彼のよさがわたしにはさっぱりわからないので共感できない。ただ、それはそれとして恋をするといつも一緒にいたくて声を聞きたくて会いたくなるっていう気持ちはすごくわかる。手近な男の子となりゆきで寝てしまうよりも、好きな人のこと「会えないけど思ってる」っていう方がずっとずっと素敵だと思う。
この最後の彼、深田のよさがわからないので共感ができなかったと、この本を薦めてくれた人に話したところこんな答えでした。
前半に出てくる大学生の男子たちは描写がわりとリアルなのに対して、後半に出会って好きになっていく人の描き方にリアリティが無くて輪郭がボンヤリとしているのは、主人公の直子が恋をしてその人のことを客観的に見られていないっていうことと関係しているんじゃないかな、と。
なるほど、恋をしていると思っているときはちゃんと相手を見れていないということなのか。

直子はほんとに彼のことを好きなんだと思う。思うけれど、一方で「どこにも属さない」自分になるために家を出て大学を辞めるために彼のことが必要だったのかもしれない、とも思う。
どんなに社会から逃げても無関心を装っていても、自分が生きている時代から誰も逃れることはできないのですよね。
じっさい逃避してどこにも属さない自分になりたいという行動自体がそのころの時代の影響を受けているわけだし、作者自身40年経ってもこうしてこの時代を書かずにいられないわけだもの。インパクトの強い時代だったんだと思う。
 




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運命の人 / 山崎豊子

  • 2015.07.29 Wednesday
  • 11:12
 運命の人/山崎豊子/文春文庫


時代は1971年。佐藤栄作内閣時代、沖縄返還交渉を背景とした西山事件をベースにして、沖縄問題、報道する権利、国民の知る権利などのテーマを盛り込んだ内容になっている。全4巻。
背景になっている時代は古いし、第四巻ではさらに第二次世界大戦時の沖縄戦にまで遡るんだけれど、検察や政治家などの国家権力とマスコミ報道の関係、沖縄返還時の不平等な密約など、問題は去年成立してしまった特定秘密保護法、げんざい辺野古でおこっている米軍基地移設問題などにつながってくるわけなので、縦軸の整理のためにも読んでよかったと思う。もっといえば、沖縄への根深い差別問題なども絡んでくる。
沖縄返還のさいにアメリカと結ばれた密約の内容というのは、1971年当時、ベトナム戦争で財政難だったアメリカに対して、本来アメリカが負担するべき沖縄の原状回復費用6億8500ドルを日本が肩代わりするというもの。
これが今もアメリカに支払われ続けている、いわゆる「おもいやり予算」のはじまりだとされる。
この不平等な密約を、敏腕新聞記者の弓成亮太は外務省の女性事務官、三木昭子から入手するのだけれど、ニュースソースを守るためそれをはっきりと記事にできない彼は、この密約の内容を社会に知らしめたいという正義感から野党議員に機密文書を渡して国会で追及させようとする。しかしそれが裏目に出てニュースソースが割れてしまい、弓成記者と三木昭子は逮捕されてしまう。ここまでが第一巻。
第二巻は、警察での尋問と裁判。国家機密と「知る権利」の問題のはずだったののが、いつのまにか男女のスキャンダル問題へとすりかえられ、大きな問題の本質や責任の所在が曖昧にされていく様子を描く。
独占欲の強い夫に隠れて弓成と関係を持ち特別な感情を持ってしまった三木昭子が司法の場で復讐に燃える悪女っぷりは女の情念のようなものを感じておそろしいけれど、理解できなくはない。ただ、問題は彼女でにあるのではなく、彼女にのっかってしまった女性団体やマスコミの一部が事件の本質を見えなくしてしまったことにある。

いまの政府との比較をすると、国民に対して「アメリカに強気に臨んで沖縄を返還させる」と国民にアピールする政府、たとえそれがポーズであったとしても、アメリカ従属をもはや隠そうともしない現在よりも当時の政府の方がまだましだったんじゃないかと思うけど、どうなんだろう。今の政府の開き直りと暴走は止まらないし、沖縄の現状はとても厳しいとわたしには思える。ただやはり、当時があるから今があるわけで、当時の日本政府がしっかりと「ほんとうの返還」を要求し実現していればこんなことにはならなかったのだろうとも思う。
話が逸れた。
 
第三巻では一審で無実を勝ち取った弓成が二審では有罪が確定してしまい、もちろん新聞社を辞めざるを得なくなる。そして第四巻へ続く。

この『運命の人』はドラマにもなっていて毎週観ていたんだけれど、最終回が特別編で2時間になっており、原作ではそれが第四巻にあたる。
自暴自棄になった弓成が死に場所を求めるように沖縄に流れ辿り着いてからの沖縄編。
『運命の人』、この第四巻だけでも読むといいと思う。多くの人に読んでもらいたい。
第一巻から三巻までは、序奏といってもいいくらいだと思うし、内容的にも第四巻だけ読んでも十分に理解できるしとても読み応えがある。
弓成が沖縄で出会った人々から生々しい経験を聞き、読み、経験することによって、ふたたび筆を握って真実を本土の人々に知ってもらおうと決意するまでが書かれていて、わたしも読みながら弓成と一緒に現地の人たちの声を聞き、衝撃を受け、忘れてはいけないと思う。
当時、弓成は記事の中で返還される基地の少なさを批判したが、今にして思えば紙の上の憤りでしかなかった。沖縄に住んでこそ実感できたこの不条理を、もっと国民全体が知らねばならない。その伝え役の一人にならねばと、強く自覚した。p96

沖縄は17世紀に薩摩藩の支配下に置かれて以来、差別政策を受け続けてきたので、戦時中はその裏返しで日本人として認めてもらう絶好の機会だと捉え日本に対する帰属意識が本土よりも強かったのではないかという。
戦前には「方言札(ほうげんふだ)」というものがあって学校では標準語を話さなくてはならず、琉球語を話すと子供たちは首から「方言札」を下げさせられたのだそうだ。
琉球民族の誇りを捨てさせられ大和魂を植えつけられ日本人となる努力をした多くの人たちが亡くなっていった。
亡くなった方の数は沖縄住民の4人に1人というのが、想像を絶する。
集団自決の際には、自決反対派もいたにもかかわらず、中国帰りの元兵士や元従軍看護婦が「投降したらどんな目にあうかわからない。自分たちが中国でやったり見たりしてきたように」という意見に少しずつ自決の方向に傾いていったとか、住民たちが丸腰で投降しようと進み出ると、後ろから日本軍に撃ち殺されたとか、言葉が違うため本土からきた日本軍にスパイ容疑で殺されたとか、単に連合軍との地上戦で亡くなったのではなく自決や味方同士の殺し合いもあったということだ。戦争は、こういった自滅的な悲劇も生むんだ。
戦後も苦しみは続く。
米ソ冷戦を背景にアメリカは1953年に土地収用令を公布して多くの住民の土地を問答無用で取り上げた。
目の前で家が壊され、大事にしてきた畑に海水で浸され、有刺鉄線が張り巡らされていく。
不平等な地位協定によって米軍兵士による犯罪では身柄を拘束することもできず、もちろん日本の法律で裁くこともできない。

このような話をちょくせつ体験者から聞き、記録を読み、集会に参加し、自らも米軍機墜落事件を目撃するにいたり、いちどはすべてを捨て、二度と書けないと絶望していた弓成がふたたび書く決心をする。
一方、琉球大学教授がアメリカで時効により開示された機密文書を探し出し、弓成のかつての証言を裏打ちすることになったことも弓成の気持ちを大きく動かすことになる。

他の山崎豊子氏の作品同様、史実とフィクションが入り混じっているので、バックグラウンドをきちんと知らないわたしはちょっと混乱もしたけど、ドラマを観ていたこともあって沖縄の風景を思いながら読み進んだ。
でも戦争のところはわたしの想像力なんてぜんぜん及ばないし、沖縄の人たちの思いもまだ少しも理解できていないと思う。
それでも知ろうとしないよりましだと信じて最後まで読んだ。
ちょっとつらかったけれど、沖縄に関する本はこれからも少しずつ読まなければいけないと思う。




追記


弓成のモデルとなった西山さんは、じっさいには沖縄に行っていないし、三木昭子との関係の描き方など、事実と異なる部分が多く、西山さんは山崎豊子さんに抗議している。
事実を徹底的に調べ、取材をし、それから執筆するが、事実をそのまま描くのではなくて、彼女の理想を投影させるのが彼女のスタイル。
わたしは西山さんと山崎さんはその後も決裂したままなのだと思っていたんだけれど、先日NHKスペシャルでやっていた山崎豊子さんの特集によれば、西山さんはこの『運命の人』を読んだあとに、作品の中の弓成に引っ張られるようにじっさいに沖縄を訪問することになったそうだ。
当事者をも動かしてしまう山崎さんの作品の力はすごいな、とあらためて思った。

メモ。池田香代子さんのブログから → 1965年沖縄 「少女轢殺」 報道写真家嬉野京子の証言 
 



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『1Q84』 村上春樹 book1~book3

  • 2014.09.14 Sunday
  • 02:28

 


〈book1前半〉

ちいさな不整合にちょっとがっかりびっくりしたオープニングでした。

ひとつめ。赤坂のホテルのバーで青豆が知り合った関西の男のスーツの色が「ブルーグレー」と描写されていたのにその数ページあとで「紺色」になっている。
自分の書いた原稿を何度も読み返し推敲するということを、いつか何処かで語っていた村上春樹がこんなミスをするかしら。
それから、青豆が渋谷のホテルの客室で「仕事」のあとにせっかく注意深く指紋をふき取ったのに、その直後にルームサービスの食器やワゴンに触れて片付ける描写がある。緊張感とともに青豆のクールさを感じさせるこの場面で、なぜまたそこで指紋を残すような行動を青豆に取らせてしまったんだろう。

ちいさなことだけど、こういうことで物語全体に曇りが出てきてしまうのはすごく残念。


それと、これを言ってしまうと、もうこの物語自体が成立しなくなるんだけれど、小説を最初から天吾とふかえりの合作というかたちで発表するということは不可能なことなんだろうか?無理にふかえりの作品にして天吾の存在を消す必要がわたしにはよくわからない。物語の大前提になるべきこの出来事に疑問が生じたために、「まあ深く考えるのはやめてつぎ行こう」という、少し冷めたスタンスにならざるを得なかった。

不満のさいご。ふかえりがディスレクシアだということが、戎野先生が彼女を学校に行かせなかった理由になっていること。
それは学校に行かせないことの理由にはならないと思う。



〈book1後半〉

この本を読んでいちばん自分にとって収穫だったのは、ギリヤーク人の存在を知ったことかもしれない。
サハリンの先住民で、ニヴフとも呼ばれている人たち。
1Q84とは関係なく、タイミングよく奈良美智さんがサハリンの旅にでかけて、そのときに出会ったニヴフの方のことをtwitterでアップなさっていて、それをきっかけにより深く知ることができた。
日本の歴史とも無関係ではなく、北海道にはアイヌだけではなくニヴフもいまでも住んでいるということなど。
奈良さんのつぶやきをまとめてくださった方がいらして、ほんとうに感謝です。


http://togetter.com/li/713972?page=1



〈book2前半〉

暴力に対して暴力で応酬するということを描いているわけだけれど、たぶん村上春樹はそれを肯定しているわけではないと思う。と信じたい。でも、そのことを裏打ちしてくれる要素がみつからない。私がみつけられないだけなのか。麻布のマダムと、青豆のやっていることは、根本的に間違っている。それが、私がこの『1Q84』という物語を面白がりながらもいまひとつ星5つに出来ないいちばんの理由なんだけれど、どこかでこのもやもやは回収されるのか。



〈book2後半〉

ちいさいことなんだけれど、ふかえりが天吾の部屋でローリングストーンズのレコードをかけていて、天吾は青豆をどうやって探したらいいのかじっくり考えたいっていうところ。
そのとき天吾がふかえりに対して、音楽を静かな曲に変えよう、というのではなくて自分が外に出るっていうところが、なんという優しさなのかと感心してしまった。だって、そこ、天吾の部屋ですよ。
天吾のようなこういう優しさってどうなんだろう。私だったら「もう少し静かな曲かけない?」って言ってもらって一緒に同じ部屋にいるほうがいいな。
などとつらつら考えていたんだけれど、もいちどよくよく考えてみたら、ふかえりはただの同居人であって、恋人でも奥さんでもないし、ここで天吾が外に出たからこそ、十歳のときの教室の出来事を反芻し月を見ていたことを思い出し、公園に月を見に行って青豆に一歩近づけたんだ、と気づいた私。

もしかしたら、すべてがふかえりのお膳立てだったのかもしれない。
ふかえりは天吾と青豆を結びつける役割としてここにいるんだと考えると、いろいろ合点がいく。



〈book3前半〉

『1Q84』は、バッハの平均律フーガと同じ構成なのだそうだ。そういわれてみるとよくわかる。
パッセージの追いかけっこ、二声から三声へ。
このbook3から「牛河の章」が登場して、ますます厚みが加わる。
牛河ってすごく気持ちの悪い人っていう印象で読み進んでいたんだけれど、読み進んでいくうちにだんだんシンパシーを感じ始める。
なんという孤独の人。
「命以外にはもう失うものは何もない」というほどに。



〈book3後半〉

天吾と青豆を結びつかせるために牛河が死ななければならないという事実を、やはり私は受け止めることができない。
全体を通して、たしかに面白いし、ぐいぐい引き込まれて読んでしまうんだけれど、これを認めてしまっていいのか。
天吾と青豆の再会が世界を救うくらいの意味がないと、物語としてはかなり貧相ではないですか?
牛河を殺害することの正当性は、最後まで読んでも見当たらないし、青豆がそれまでに犯してきた殺人はどうやっても正当化できないんですけども。
孤独はごく普通の人をも暗殺者に変えてしまう、というのがテーマなんですか?

とはいえ、天吾と青豆が1Q84の、月が二つ見える世界から抜け出してきたあとに見た月の描写が美しかったので引用しておきます。

「月はひとつしかない。いつも見慣れたあの黄色い孤高な月だ。ススキの野原の上に木して浮かび、穏やかな湖面に白い丸皿となって漂い、寝静まった家屋の屋根を密やかに照らすあの月だ。満ち潮をひたむきに砂浜に寄せ、獣たちの毛を柔らかく光らせ、夜の旅人を包み護るあの月だ。ときには鋭利な三日月となって魂の皮膚を削ぎ、新月となってくらい孤絶のしずくを地表に音もなく滴らせる、あのいつもの月だ」(p.381)





謎はいろいろ残るけれど、どうやらBOOK4はあり得るようです。

というか、未決事項が多すぎます。BOOK4が出ないということがあり得ない、と私は思う。

そして、4が出たときには3までの物語を忘れてしまっていそうな気がするので、4に繋がりそうな(もしかしたら繋がらないかもしれないけれど)ことがらをアトランダムに書き出しておきます。



★冒頭で、タクシーの中で流れる曲がヤナーチェクのシンフォニエッタだということが青豆にはなぜ解ったのか。

★天吾のガールフレンド安田恭子は、なぜ「失われた」のか。「失われた」とはどういう意味なのか。父親が残した写真にうつる天吾の母は安田恭子によく似ていたのは、何か意味があるのか。

★安達クミは天吾の母親の転生なのか。母親を(たぶん)殺して行方不明のままの男は誰なのか。どこで何をしているのか。

★教団の坊主頭はなぜ「われわれ」と言わずに「彼ら」というのか。「彼ら」とは誰なのか。リトルピープル?

★『空気さなぎ』のふかえりは、もしかしたらドウタなのか。

★牛河の口から出てきたリトルピープルが作った空気さなぎからは、何が生まれるのか。

★ふかえりが天吾のアパートの前で見上げて見つめていたのは何なのか。(わたしは、カラスと関係があるような気がしてる)

★2人がやってきた世界は、元の1984年なのか、それとも第3の世界なのか?

★『空気さなぎ』が書かれて出版されたことは、さきがけにとってどのような不都合があるのか?

★1Q84年から逃れることができても、青豆が暗殺者だったということは打ち消すことができない。1984年に存在していたときにすでに人を殺していたのだから。復讐としての殺人を村上春樹が肯定するはずがないから、青豆の罪をどのように回収するのかということは、語られなくてはならないと思う。

★タマルは、いちど女を妊娠させたことがある。産まれた子供は17歳になっているはず。ふかえりと同い年なんだけれど、何かそこに意味はあるのか。ないのか。

★天吾の書いている小説は出版されるのか。もし出版されたら、さきがけや他の人々に、そして世界の流れにどのような影響を与えるのか。

★父親が死んだとき、病室のベルを押したのは父親自身だったのか?

★教団は青豆とお腹の子供を追い続けている。青豆は逃げ続け、隠れ続けられるのか?

★もしお腹の中の子が後継者だとしたら、なぜリーダーは自分を後継する<声を聴くもの>を青豆の中にセットしたのか。なぜ青豆でなくてはならなかったのか。そしてその相手は天吾でなくてはならなかったのか。

★もし首都高から246に下りたタイミングで青豆が1Q84の世界に行ったのであれば、マダムもタマルも元の世界にもいるはず。再会はあるのか。



 

 

『百日紅』 杉浦日向子

  • 2014.01.11 Saturday
  • 17:11
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 百日紅/杉浦日向子


天才偏屈な葛飾北斎と、その娘お栄、弟子の善次郎を中心とした日常を描いた漫画。

杉浦日向子さんの肩書きはwikiによると「漫画家、江戸風俗研究家、エッセイスト」で、日本橋の呉服屋のお嬢さんで、若い頃は「時代考証学」なるものを学んだとか。知らない時代の物語なのにとてもリアルで、まるでタイムトリップしたような気分にさせてくれてくれるのは、杉浦さんのそんなバックグラウンドが成せる業なんだろう。絵もいいし、セリフもいい。
登場人物は、皆くどくどと語ったりせず、ぶっきらぼうでいわゆる江戸っ子らしいさばさば系なんだけれど、短いセリフとさらりとした表現の中に深さと切なさが潜んでいて、それぞれ短編のおしまいには、心に沁み込んでくる余韻が残るから不思議。
粋でさっぱりとした江戸っ子気質の内面にだってとうぜん渦巻く葛藤のようなものがあって、それをいちいち言うのは江戸っ子的には「無粋」で「野暮」だったんだろうな。北斎の娘、お栄も絵で身を立てていて上手いんだけれど、どこか突き抜けられなくて(女としても絵師としても)悶々とした感情が「さばさば」の中にときどきチラ見えするのも、饒舌じゃないからこそ胸をキュンと締め付けられる。
あと、当時のことだから、科学では推し量れないような不思議な現象が「もののけ」的なもののせいになって、そういう考え方が生活に根付いていて、だから人々は自然に対して、生死に対して、謙虚でいられたんだろうとも思う。
封建制時代だし、貧困や格差だって今の比ではなかっただろうし、必要以上に江戸時代を礼賛するのは本意ではないけれど、もしも今デロリアンがあったら、行きたいところのナンバーワンはこの時代。
庶民の日用品や着物や道具類のデザインを見て回りたいし、お芝居やお茶屋さんのハシゴなんかもしてみたい。

杉浦さんは、残念ながら2005年に46歳の若さで亡くなっていらっしゃいます。





 

わたしを離さないで

  • 2013.07.10 Wednesday
  • 13:45

わたしを離さないで/カズオ・イシグロ/ハヤカワepi文庫 

極端な設定ではあるけれど、フィクションというのは、こういうメタファーから普遍的なテーマが浮き彫りになってくるのでしょう。限られた役割を担って作り出された生命体のアイデンティティというものを扱っているという点において、わたしはこの本を読んで『ブレードランナー』(映画)を思い出します。主人公たちひとりひとりが、暴力や悪に近い言動を見せたとしても、それらが全て、悲しみや孤独感に裏付けられているような気がして、その思いを想像するだけで、胸が締め付けられます。ただ、それはわたしたちにも言えることで、自分が誰なのか、何のために生まれてきたのか、限られた時間をどう生きていくのか、どう死んでいくのか、そういうことは、わたしたちのテーマでもあるんですよね。
あまり書くとネタバレになってしまうのでやめておきますね。
この本は途中までネタバレは厳禁かな、と思うので。
ただ、この主人公たちが幸せなのか不幸なのかということにおいては、敢えて言ってしまうと、けっして不幸ではないと思います。
少なくとも、自分が何のためにこの世に生を受けたのかという理由があり、終わり方がある程度わかっているということは、根源的な不安感というか、恐怖からの解放じゃないかと思わなくもないし、生まれてきた意味を見出せず、どういう状況でいつまで生き続けるのかわからない、そしてどうやって死んでいくのか先が見えないということを恐れながら過ごす人間もこの世には存在するわけだから。世の中には「何がおこるのかわからないからこそ人生は面白い」と言えるようなポジティブな人ばかりが存在するのではないということです。
わたしの心境がいまちょっとおかしいのかもしれませんけれど。
静かで美しい小説と評価する人もいるようだけれど、わたしの印象では、ちょっと暗くてグロテスクです。そういう描写はないのだけれど、どうしても「美しい」とは思えない。最初から最後まで悲しいです。
読んでいて違和感があったのは、トミーの台詞の翻訳。他は気にならなかったのですが、そこだけ、ちょっと。

『不実な美女か貞淑な醜女か』 米原万理

  • 2012.04.26 Thursday
  • 18:32
  『不実な美女か貞淑な醜女か』 米原万理



 
ロシア語の同時通訳をなさっていた米原万理さんの著書です。
分かりやすくて面白かった! この方は頭が良くてその上に努力家でユーモアがあって、すごいな。
そして鋭い洞察力と優しさ。
通訳には日本語以外の他言語に堪能である以上に、他者の言うことを正しく理解する力とそれを表現する力が不可欠とおっしゃる米原さん。正確に一語一句を訳すのではなく(というか、それは不可能だってこの本を読むとよくわかる)要点を分かりやすく論理的に伝えるのが仕事であると。「字句から一度身を退いて自由になり、より広い視野でもって本来メッセージが伝えんとするところをとらえる(p170)」。当たり前のようなことだけれど、自国語だって他人の話を理解して第三者に伝えるのはけっこうたいへんだもの。
そして、「話し手がどんなに博識で洞察力に富み、高邁なことを述べても、通訳者の表現力を超えたレベルで、それが聞き手に伝わることはあり得ないのである(p119)」。これも、日本語でも同じことね。ああ、耳が痛い。
で、この「インプットしてアウトプットする」訓練がヨーロッパでは国語(とはいわずロシアならロシア語、なんだけれど)の授業で徹底的に行なわれるそうで、米原さんは日本の国語教育の問題点にも触れていて、その内容も興味深いもの。
そのことともリンクするのだけれど、彼女が強調することに「まずは日本語の駆使能力」というのがある。外国語を身につけても日本語の下手な人は、その下手さ加減よりもさらに下手にしか外国語は身につかない。外国語の力もまた母国語の能力に左右されるという。
  さまざまなエピソードを混じえ通訳という仕事の本質と可能性を探りつつ、言語の多様性や深さ、言語と民族のアイデンティティという問題にも踏み込んでゆく。
どんなに小さくてその名をあまり知られていない国の人々も、自国の言葉で話す権利を持っている。二つの大戦以降、そういう考え方が少しずつ浸透して来て、同時に通訳という仕事の需要も増大したという。たとえばアメリカと政治の場でもビジネスの場でも英語で渡り合おうとすれば、母国語としない人々に不利になる。通訳を立てた方が対等ということね。いま楽天やユニクロので行われていることを知ったら、米原さんは何とおっしゃるだろう?グローバリズムってなんだろう?
「言葉は、民族性と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの、個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである。だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言をする機会を与えることが大切になってくるのだ。それを支えて可能にするのが通訳という仕事、通訳という職業の存在価値でもある(p293〜294)」
そして興味深かったのは、日本の代表者が海外に行って英語でスピーチをするのはやめて欲しいという趣旨の内容。そのような方々には自国の言葉で話す権利と「義務」があると。

そして彼女がどのような点において通訳という仕事に喜びと誇りを抱いていたかは、最後の章のこの文からわかる。
「地理的にも離れ、異なる歴史を歩んできた国の人々が、異なる文化と発想法を背景にしたそれぞれの言語で表現しながら、それでも通じ合っているそのこと自体が奇跡に思えてならないのだ。そして異なるからこそ共通点を見出した時の喜びは大きい。他の民族に対して自国の言語を押しつけたり、あるいは逆に強国に迎合して自国語をないがしろにしている人々には、この感動は永遠に訪れまい。(p308)」

通訳という仕事とは関係なくとも、言葉というものに興味のある人、外国語を勉強する人におすすめしたい本です。
で、ここからはレビューとは少し離れるんですけど、この本の中に、シベリアに住むヤクートという民族の言葉のことが書かれています。
文化や自然環境によって、その言語がもつ語彙が、あるカテゴリーで極端に多かったり少なかったりするということはわりと知られていることですが、ヤクートの言語の中には罵りや蔑みの言葉が見当たらないのだそうです。
この心優しき民族のことをもう少し知りたくて調べていたら、こんな記事をみつけました。
自分の備忘録代わりにここにメモさせてください。
「数年前ヤクーツクからの使者があり、母からの預かりものですと『サハ民族の話』という本をいただいた。著者はユカギール族出身のサハ共和国教育大臣ヴィノ クーロヴァさん。面影を追いながら読む内に「サハ民族の死滅は避けられないのか?」という章に驚く。17世紀にコッサックがやって来て以来ロシア帝国によ る収奪と迫害の時代が始まる。ヤサックと呼ばれる税を課され、疫病を作られ、サハ人の人口は半減した。ソ連初期の十数年だけは多少の改善は見られたもの の、すぐに第二次大戦、次いで冷戦下の核戦争準備。ヤクーチアにたくさんの核実験場が作られた。北海海岸には小型核燃料施設が並ぶ。ダイアモンド、金鉱や その他の鉱山では「平和目的の」小型核爆弾による採掘が日常化する。1991年以降をとっても、急激な死亡率の上昇、出生率の低下、罹病疾病の増加、河川 の放射能汚染、トナカイゴケの核汚染、重金属汚染、永久凍土の融解、森林火災の日常化。人間の生存そのもの対するこの全面的な危機をどう回避するか。民族 の文化が死滅させられることをジェノサイドという。しかし人間そのものが死滅しては、文化も言語も生き続けられるはずはない。ヴィノクーロヴァさんは、上 の問に対する答は今のところ見つからないと歯がみする。ただ、サハ共和国の政治的・経済的自立と知的でエコロジカルな政策の確立が一日も早く可能ならばと 願うのみであると。」【地球ことば村・世界言語博物館】 NPO(特定非営利活動)法人

アルベール・カミュ『ペスト』

  • 2012.01.19 Thursday
  • 15:53
  カミュ/『ペスト』/新潮文庫




フランス領時代のアルジェリアにあるオランという、ペストが蔓延して封鎖された一都市の人物群像。

ペストの蔓延という「不条理」な状態に置かれたときにとる言動は当然、それぞれの人物の職業や立場や生い立ちや思想によって異なるのだけれど、そこを深く追求していくことによる問題提起が、この本の読みどころのひとつだと思う。
犯罪を犯したことによって捕まることに怯えてるコタール、パリに恋人を残してきたゆえに早く街から出て行くことだけに執着する新聞記者ランベール、ペストの蔓延は神の断罪だと言い切る神父パヌール、よそ者であるにもかかわらず献身的に医師リウーを補佐しながら街の人々と関わっていくタルーなどなど。
これらの人々の言動と、それを見つめる主人公リウーの視点によって、カミュが当時にして死刑制度に懐疑的だったことも、キリスト教に限界を見出していたことも理解できる。しいては革命運動におけるサルトルとの決裂の理由をも示唆しているように思う。

とくに焦点をあてているのは、旅行者タルーの、その生い立ち、父親との葛藤とそこから生じた、信念。
人を死なせたり、死なせることを正当化する、いっさいのものを拒否しようと決めた、その経緯をリウーに語るところはとても大切な箇所。
そして、それに答えるリウーは、戦いは大事だけれどそれは愛があるからこそ役に立つのだと静かに答える。

この2人の会話の中に、カミュ自身の革命的思想と、サルトルと立場を異にする考えが投影されているように思えて、とても興味深かった。
カミュは、リウーとタルーの両方の面を持っていたのかな。
リウーが主人公だからリウーなのかと思っていたけれど、ネットでいろいろ調べてみたら、タルーとかぶるけど。
どちらにしても、緊張感を孕んだこの対話のあとだからこそ、2人が夜の地中海で「友情のしるしに」と月明かりの下、泳ぐ場面がいっそう美しく感じられる。
個人的には、ここがいちばん好きな場面。

現実を直視出来ないバラバラだった前述の人たちも、悲惨な死の光景や、医療に従事するリウーに影響されて少しずつその考えを改めて、連帯して共にペストと戦ってゆくようになるところも感動的。
説得することではなくて、目に見えないものと戦い続ける姿勢、愛と信念に基づいた行動によって他人の心は変えられるんだということを感じさせられる。
リウーは信念の人だけれど、決して誰かに「あなたは何々すべきだ」とか「あなたは間違っている」と言わないところがまたいっそう心を打つ。

この『ペスト』は、まるでドキュメンタリーのように淡々と描かれている一方で、ペストというものが他の何かと置き換えられる象徴性をも感じさせる、と思いながら読み進んでいたんだけれど、wikiによると、「第二次世界大戦時のナチズムに対するフランス・レジスタンス運動のメタファーではないか」というので、「やっぱりそうか」と思った。
じりじりと私たちの生活を脅かしながらも、私たちがそれに無関心でいるあいだに、あっという間に覆いかぶさってくる恐怖。
書かれた当時はフランスだったのかもしれないけれど、目に見えない敵と息長く戦うという意味でも、今は震災と原発事故後の日本と、びっくりするくらい符号することがたくさん見えてくる。
だから、リウーの「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」というセリフが、あらためて私にとって、重い意味を持つ。
今、私がどういうスタンスでいればいいのか、どういう視点で放射能に汚染され続けているこの国をみつめればいいのか、指針になる。


この本の中のリウーのセリフを辺見庸さんは著書の中でもインタビューでも講演でも、しばしば引用されている。
「『ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです』ということばの凡庸さに何度も回帰して、またそんな凡庸さにあくびをしながらも、誠実、愛、痛みということを、もっと手触りのあることば、マチエールをともなったことばとして、やっぱり自分で何度も反芻せざるをえない」

コマーシャリズムのもと、凡庸で陳腐になってしまった「愛」とか「誠実」という言葉に、それ本来の意味を与えなおして、命を吹き込まなくてはならないときがきているのだと思う。










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『しのびよる破局』辺見庸

  • 2011.09.26 Monday
  • 16:08
 しのびよる破局/辺見庸/角川文庫


わたしたちが真に直面している危機は何なのか、そして取り戻さなければならないのは何なのか、それをおしえてくれます。
読んでよかった。

311以前と以降とでは、何かガラガラと音を立てて変わってしまったような気がしていたけれど
この本を読むと、ずっとひと続きで、ある意味その帰結なんだということがわかります。
音を立てて変わったのは、私の「気付き」の音なんだと。

気付いたあと、どうすればいいのかを考えなくちゃ。
コマーシャリズムに奪われた言葉を、もっと実態の在る、手触りのある言葉として取り戻さなくちゃ。
無意識に私の中で切り捨てていたものの中に、ほんとはぜったいに守るべき何かがなかったか、
もういちど検証してみなくちゃ。


そして、本書で何度も例に出されている、カミュの『ペスト』を、次に読みます。


引用

やはりぼくは、人間とは何か、人間とはどうあるべきなのかということを基軸にして考える必要があるとおもう。人間は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるのだということを揺るがぬ基軸にして考えるしかない。そして、その人間たちが住む社会というものは、それにむかってたたかい、努力する必要があるとおもいます。

青年たちが、障害者が、あるいは年老いた人びとが、排除されてもよいものとして路上にほうりなげられているときに、それを痛いとも感じなくなって、我が身の幸せだけを噛み締めるような人生というのはなんてつまらないのだ。なんて貧しいのだ、なんてゆがんでいるのだという感性だけは失ったら終わりだとぼくはおもいたいのです。

いま必要なことは、繁栄を取り戻すことではなく、新しくなにかをつくることなのです。それはありもしなかった平等をいうことではない。働くとはなにか。平等とはなにか。あるいはさっきいったように、貪欲というのはどこまで許されるのか。そういうことをモラルの根源において考えてみるということが、ぼくはあってもいいとおもうのです。そのなかで、個々の人間が無意識に薄いクモの巣のように体内に張ってきた荒みをまず発見することに、自分の課題として興味があります。





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『沼地のある森を抜けて』 梨木香歩

  • 2011.09.17 Saturday
  • 15:28
 沼地のある森をぬけて/新潮文庫/梨木香歩

梨木さんの物語はいつも、「個」を深く追求しているようで、でも、いつの間にかそこからどんどんとあらゆる方向へ視線が拡がり、気づくと読み手である私のキャパをはるかにオーバーしそうになるほどに物語がそのかたちを予測できない方向に変えてゆきます。
溢れてとりこぼしたものを何度ももどっては拾い、苦心しながら読み進んで、読了後には、たいていぐったりと疲労困憊。
けれど、頭をフル回転させてひとつひとつのことがらを、文章を、キーワードを、がんばって私なりに謎解きをしながらていねいに辿っているうちに、それらがやがてひとつになって、大きなカタルシスを生むことが、私が梨木さんの本に魅せられている理由のひとつになっています。

この本も例外ではなく、ほんとよくわからなくて、1度目はストーリーをざくっと追って、2度目はじっくり、繰り返して読みました。

前半は、ちょっと梨木さんらしくない現代小説っぽさを感じるのですが、きっと舞台がそこそこ都心に近いマンションで、会社勤めの独身OLが主人公だからでしょうか。
けれど、彼女が先祖代々の女たちによって受け継がれてきたぬか床を引き受けることになり、菌や胞子やミクロの世界が語られるようになってから、少しずつ梨木さんらしい物語になってきます。


この中で語られるひと筋のテーマは、無性生殖から有性生殖への生命存続システムのスイッチングだと思われます。
なぜ、どのように生物は細胞分裂を単調に繰り返し増殖していく無性生殖から、有性生殖へと移行していったのか、それを科学的にではなくて、文学として、ドラマとして描くことによって、さらに宿題というか、私たちに課題を投げかけているのではないかと。

前半の大事な布石は、久美が独身で、特に結婚願望もなく、でも自分が孤独で子どもを持たないことを

 
身に覚えの無い悲しみだったわけではない。私は自分の中にその悲しみがあることを知っていた。ただそれに拘泥することをしなかっただけだ。そこまで私を支配する問題ではなかったので。
 
と思っていること。
それと、父親や祖父の男性の暴力的な側面を目の当たりにしてトラウマをもち、自らジェンダーを捨て、だからこそ余計にその問題を抱えざるを得ない生き方をしているように見える、複雑な矛盾の象徴のような風野さんの存在。

久美は女性で、風野さんは生物学的には男性ではあるんだけれど、2人ともこの段階では精神的にはいわば中性に近い存在です。

後半、久美と風野さんは、ぬか床を沼へ返すために一緒にシマを訪れるのですが、そこで知る事実がすごい。

シマの「鏡原」という部落の人びとはこのシマの先住民で、久美の祖先である「上淵」という姓は元は「神淵」といい、本土からやってきたが、かつては鏡原を外から守る役割を担っていたらしいのです。
時代が流れてその形が崩れて鏡原と神淵は疎遠になり、神淵は上淵に変わったというもの。聖から俗へとその性質が変わって姓も変わった。

私は、この「神淵」の存在が、「ウォール」という言葉とシンクロするような気がします。
内と外を隔てる存在。アイデンティティを守り、孤独を守り、同時に融合を拒絶する壁。
もともとシマに住んでいた鏡原の人びとは、じつは、母であり胎である沼から生まれ、沼に帰る、いわば無性生殖により生まれた人々だったというから、その秘密とその血を守るためにもウォールが必要だったということ。
そして久美は、鏡原と上淵の両方の血を引いている存在だった!

日本の歴史というのは、琉球もアイヌもそうだけれど、そのほかにもこのようなちいさな部族がたくさんあって、おおよそ似たような繰り返しがあったんだろうと思います。もちろん無性生殖というのは極端だけれど、その血にプライドを持ち大事にするという点で。

太古の昔に生まれた生命が、そのプログラムを変化させてきたように、きっと、沼から生まれてきた人びともいつまでも未来永劫同じプログラムで生きていくことが出来なくなったということなのでしょうか、鏡原の血を引くものたちが、満月のその日に、ひとつの目的のためにシマに集まってくる。 
沼地は、もう、前のような方法では生殖を行わないから、彼らはこの種の、最後の人たちとして、ここで平和に滅びてゆくんだ。

終わらせる?
これが終焉?
滅び?

でも、かたちを変えて繋がっていく。
存続していく。
久美と風野さんによって。
かつては重夫さんとカヤさんによってなされたように。
鏡原の人びとがあまりにも静かに沼の人びとの終焉を受け入れるので、読んでいて、なぜ無念の気持ちや怒りの感情をあらわにしないのだろうと疑問に思ったけれど、鏡原の人びとは血の存続を予知していたからなんだろうなあと、あとで理解できました。
 
それを予感させる風野さんのセリフ。

 
 
僕が、すでに、ぬか床の存続のために動いていると?
はじめて有性生殖をした細胞は、話しかけようとしたんじゃないかな。同じような、でも、少し違う細胞に。何かの働きかけをしようとして、そのとき、人間の使う言葉の代わりに、化学物質を出したんだ、きっと。
「同じような、でも、少し違う細胞」って、たぶんきっと、久美のこと。
「化学物質」は?風野さんが食べたぬか漬けに含まれていたなにか...?

このシマに来てからの風野さんが、少しずつ変化していく過程も興味深い。
中性的存在から男性的存在へ。
彼自身の中の変化と、それを敏感にキャッチすることによって自分も中性的存在から女性的な存在へと変化していく久美。
久美が自分の性欲のことまで「化学反応的な衝動」というところが可笑しいし、真面目な梨木さんらしいといえば、らしいけど。

風野さんの言う、最初に有性生殖をおこなった細胞の勇気と、遺伝子に組み込まれた孤独。
それがそのまま、この2人にリンクします。海水が満潮も迎え、沼に入り込み、沼に溶けていったぬか床が甘い香りを放ち、久美子は新しい命を宿します(そこははっきりと書いていないんだけれど、じゅうぶんに確信させられます)。
ぬか床が雄性細胞に変化して、沼地の海水中では雌性細胞が広がる、なんて、唐突だけど、ってことは、風野さんがぬか床で、久美がそれを受け入れる海であり沼であるとも解釈できます。

久美と風野さんが結ばれるシーンは、性愛というよりも、プログラミングされている生命の誕生システム、みたいな切り口なんだけれど、それなのにというか、それだからこそというか、すごくエロティックで美しくて切ない。

久美がこんなふうに感じるところ 
肘の内側に、冷たい夜露が落ちて、ふと上に目を遣ると、木々の枝の重なりの間から、まるで秘密の信号を送ろうとするように、何億年もの前の星の光が瞬く。体と意識はその一体感に陶然としているのに、どこか一点、私の中に取り込まれていた何かが硬くその「孤」を譲らない。宇宙のすべてを相手にしてなぜ、その一部と成り切ってしまえないのだろう。執拗につきまとう、この寂しさは何なのだろう。
 
は、一度めに読んだときには、私も久美の寂しさは何なのだろう?と思ったのだけれど、注意深く読めば、それはきっと、遺伝子に取り込まれて延々と続いてきた、最初の細胞の孤独感の作用なんだろうとわかります。
そして、久美が感じた寂しさに、そのDNAを持つにちがいない私もまた共感して、自分の内側に覚えのある記憶を手繰り寄せて泣いてしまう。

 
私の中に取り込まれていた「孤」は、太古の植物の胞子。それは、岩石の内部に、軟マンガン鉱の結晶が育ってゆくように、ひとつの細胞から羊歯状に世界へ拡がりゆく、譲りようのない鉱物的な流れ。私の全ての内側で、発芽し、成長し、拡がるたびに身を裂くような孤独が分裂と統合を繰り返す。


そして、この私の中にもそれが取り込まれてるんだって、その解釈は私にとっては救いでもあります。誰の内側にもある「孤」が拭い去ることができないものなら、あきらめて受け入れ、むしろ、それは愛おしく、大切に守るべきものでもあるんじゃないか、と。

作中で頻繁に出てくるウォールという言葉。壁。膜。内と外を隔て、内と外を作る、自己と他者を作るもの。それは、有性生殖に例えられる人と人とのリアルな触れ合いや共感や共鳴によって超えられるのか、超えられないのか?その最後の答えは明らかにされてないままだと思うのだけれど、きっちりと硬く引かれた境界線が緩やかになって、開かれることがなければ、新しいものを生み出すことはできない、ということは明言されているのだと思います。
ただし、最後まで持ち続けるべきアイデンティティがDNAの中の「孤」であり、それは孤独の「孤」だけど、「個性」にも繋がる「孤」なんだと、梨木さんは言いたいんじゃないかと思うんです。
ミクロ的に見るとそうなるんですけど、さらに深読みするとすれば、ウォールというのは、国境であり、人種であり、言語であり、イデオロギーでもあるんじゃないかとも、ふと思いました。
海水を沼に呼び込んでも、水門周辺は混ざり合う海水と沼の成分が、それぞれのテリトリーでは完全には混ざらないみたいに。
つまり、『裏庭』での、「鎧を脱ぐ」という言葉や、『春になったら苺を摘みに』での「ボーダーじゃなくて、グラデーションでいこう」という言葉にも共通するメッセージが込められているのではないかと思います。
そういえば、『裏庭』では、自分を守るべき鎧のことが、いったん着込んでることに気づくとそれは重くてしかたがなくなるもの、あるいは、自分を守るだけではなくてときには武器になって相手を傷つけてしまうもの、として描かれていました。「ウォール」もきっと同じようなものな気がします。
ウォールを溶かして、開いて拡がっていくイメージは、横軸の拡がりだけでなく、命を繋ぐという意味での縦軸の流れにおいても、『裏庭』で、照美のお母さんが着ていた鎧を脱いで、娘の照美と心を通わせるイメージと重なります。

最後に守るべき「孤」と、開くべき「ウォール」。


僕が、新しい命にたぶん、望むように。解き放たれてあれ、と。母の繰り返しでも、父の繰り返しでもない、先祖の誰でもない、まったく世界でただ一つの、存在なのだから、と。解き放てあれ。 

 
と、ここで終わりにしたいところですが、「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」という、三つの挿入章にも触れなくちゃ。
最初から最後まで本編とまじわることなく、もうひとつの独立したシンボリックなストーリーです。
分裂を単調に繰り返す毎日を送る無性生殖する細胞と思われる「僕」。名前すら持たない個性の無い無数の「僕たち」から、ちょっと毛色の変わった「僕」が出現して、旅に出て、出会った「アザラシの娘」と恋に落ちる...みたいな。
この「僕」こそが、風野さんが言っていた「いちばん最初に、有性生殖を行った細胞」で、この三つの章は、その細胞を主人公としたサイドストーリーだと思われます。
名前が与えられ、水門を開けてシマに海水を呼び込み、「シ」という名前のアザラシの娘と出会うのですが、「シ」という名前が象徴するのは、おそらく「死」で、新しい命の系譜の始まりは、死と共存するということをあらわしているのではないかと思います。

「ロックオープナー」という名前を与えられたことはアイデンティティーの萌芽であり、それによって「僕」の中に「孤独」という概念も、きっと芽生えたでしょう。強烈なひとりぼっち。
海水をシマに呼び込むシーンは、本編での、シマの若い子たちがさがしてきれいにした穴から海水が入り込むシーンを思い起こさせ、さらに、「僕」と「シ」との出会いは、久美と風野さんの最後のシーンを想起させます。
べつべつのストーリーでありながら、こんなふうにいろんな符号がシンクロして、そこに気づくことで、また不思議な感動が生まれます。

最初に読んだときに、この「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」がぜんぜん理解できない〜と、ツイッターでつぶやいたら、フォロワーさんのひとりが「”久美”という名前は、女性の生殖器を意味するとおそわったことがある」とおしえてくれたんですが、その後調べてみても判然としませんでした。
ご存知の方いらしたら、おしえてください。

尚、この作品に関して、梨木さんご自身がインタビューで語っていらっしゃいます。

http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/429905_02.html
これを読んでも、本作がミステリアスであることには変わらないのですが。

梨木さんって、プライベートをほとんど明かさない人なんですけど、ご結婚なさっていてたぶん女の子を産んだことのある人という気がします。
というか、ほぼ確信しています。

 





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『新編 日本の面影』 ラフカディオ・ハーン

  • 2011.01.14 Friday
  • 23:21

  新編日本の面影/ラフカディオ・ハーン/角川ソフィア文庫



ラフカディオ・ハーンは、『怪談』で知られていますが、大の親日家でもありました。
1890年、ハーンが40歳のときに島根に移り住みますが
そのときの経験を綴ったのが本書です。

ハーンって、お父さんがアイルランド人で、お母さんがギリシャ人なんですね。
私のにわか知識ではアイルランドは神秘的な妖精の国、ギリシャは神話の国。
日本の神話や民話に親しみを覚えるのがわかるような気がします。

20年前くらいにNHKでジョージ・チャキリス主演でドラマになっていて
奥さんのセツの役を壇ふみさんが演じていたこと以外は記憶があいまいなのですが、
朝もやの立ち込める川にかかった橋の上でハーンがたたずんでいるシーンはよく覚えています。
全体に静かで美しい画像だったような。
調べてみたら、脚本は山田太一さんでした。

この本の中で、ハーンは、日本人の私がちょっと照れくさくなるくらい、日本の自然や情緒、日本人のふるまいや町のたたずまいをとても美しく好意的に描いています。
読んでいてほんとうにうっとりしてしまいます。
とくに私が好きなのは、『盆踊り』の章。
舞のリズムと、独特の音階を持つメロディーが、ハーンの心を捕らえます。
人々が浴衣の袖を揺らしながら、輪になって蝶のように踊る姿を描いているのがほんとに神秘的で美しいんです。
日本のいけばなや庭造りの考察や、神仏との関わり合いに関しても、深く確かな筆使いで書かれていて、日本人である私があらためて勉強になるようなことばかり。
民俗学に興味のある方にもおすすめかも。

でも、終盤は褒めるだけではありません。
明治という時代、欧米の影響を受け、大きく変わっていく激動の時代
ハーンが愛した日本の姿も変わろうとしていることも、それを止めることが出来ないことをもハーンは語っています。
「日本人は、深刻さに欠けている分だけ、より幸せなのであり、たぶん現在でもでも、文明化された世界ではもっとも幸せな国民であると思う」というくだりは、ハーンがそのつもりではなくとも、今生きている私には強烈で鋭い皮肉に感じます。
日本人が、自分たちの持つ、目に見えるものも見えないものも含めて、大きな財産を自ら手放そうとしている様子を、ハーンは哀しくやるせない気持ちで見ていたのでしょう。

日本人の中に、はかなさや移ろいを美しいとする、そのような美意識が存在することもまた、時代の流れを容易にしているという考察もありました。

タイトルに「新編」がついているのは、昭和33年に刊行された『日本の面影』と区別するためだそうです。とってもすばらし翻訳は、池田雅之さん。

 

 

 

 

 

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