アイルランド・ストーリーズ / ウィリアム・トレヴァー
初トレヴァーでしたが、一気に持っていかれました。全トレヴァー作品読破という人生の楽しみが出来て嬉しいって思ったくらい。小さな嘘とか後悔とかつまらない見栄とか不器用さとかやり直しの効かなさとか、誰もが持つけど表に出したくないところ、ちゃんと人間の匂いがする人たちの感情の機微がトレヴァーの深く優しい眼差しを通して描かれている短編集。ほとんどの作品が「起承転結」の「結」がふぅっと透明になって消えていく。あとは想像して、考えてみて、と。だから作品の中にちりばめられている伏線を丁寧に拾わなくてはならないし、読後もういちど読み直してみたくもなる。読書の幸せを味わいました。
『女裁縫師の子供』あのときああすれば、とか、しなければ、とか、考えることは誰でもあるかもしれないけど、でも時間は戻せない。女裁縫師は、じつは子供が邪魔だったのか、いなくなることで自分が自由になれるということに気付いてしまったのか。どちらにしても母親としてちょっと不思議だし不気味な存在だけど、主人公のカハルはどこにでもいるタイプの青年。平凡で平穏な生活とそうでないところの境界線は、微妙でしかも紙一重。無自覚にちょっとボタンを掛け違えただけで違う道を歩いていたりするから、平穏や幸せを守っていくのは、じつは容易ではないんじゃないか。利害一致で、カハルはこのあと彼女の術数に嵌って堕ちていくのかな。エンディングをはっきり書かず「どう思う?」で終わらせるところが、トレヴァー の短編だからこそかも。聖母の涙は、やはり見える人には見えるのだ。エゴイズムに取り憑かれ、それに泣くことになった大人には。人は一通りの人生しか送れないという、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を思い出した。
『キャスリーンの牧草地』まるで父親による人身売買のようなことが行われているというのに、本人さえそれを自覚せず、それがどうしたの?っていう感じで日常が淡々と描かれているところが怖い。サイズの合っていない制服を、脱ぎすてることができない日々の仕事のメタファーにするトレヴァーの巧さ。プロテスタントとカトリックという、過去のアイルランドにおける抑圧する側とされる側を表現しているのかもしれないし、かつてイングランドプロテスタントに搾取され尽くされてそこから這い上がるとき、両派のあいだに実際にこれに似たことがあったのかもしれない。カズオ・イシグロが『日の名残り』を「感情を殺して人に仕えるということを現代の労働のあり方のメタファーとして描いた」こととの共通点も見出せる気がするけれど、主人公が弱い立場の女性であるがゆえ、より深刻に思える。相手がどんなに唾棄するような人物であろうと「ご主人様」であり、その泥沼から抜け出せない以上、思考停止を余儀なくされる。キャスリーンの父親がもし真実を知ったとしても、状況を変えることは出来ないんじゃないかと思って、暗澹としてしまった。
『第三者』ファーガス・ポーランドがジェムソンを何杯飲んだのか、数えなかったけど、こんなに飲んでも運転してもいい時代だったんだなーと関係ないことに感心してしまった。いや、関係なくもないか。彼が酔わずにはいられなかったこともテーマと関わることかも。男が、自分への関心を失った女に執着する時、それは愛情なのか、プライドなのか? なぜすんなりと(元)妻をレアードマンに渡せなかったのか、自問自答するところで終わるのが面白い。自分のものだった女と関係する男をすべてにおいてクズ認定する心理。ボーランドが、お酒を飲んでいないのに調子良く喋るレアードマンを見て、飲んでいる人間と一緒にいるだけでゆるくなるタイプの人間がいて、それは同席している人間のグラスからたちのぼる酒精の作用だと思うところが、すごくアイルランド。
『ミス・スミス』愛の在り方や距離の取り方は難しい。たとえそれが、男と女でなくても、大人同士ではなくても。
『トラモアへ新婚旅行』時系列が巧みに飛ぶ、こういう技法を読者にストレスを与えずに、しかも効果的に使っているのが、トレヴァーすごい。キティーの嘘を受け入れたデイビーの心理が、愛情なのか打算なのか、たぶん両方が複雑に混ざっているんだろう。読者として、わたし自身が、自分の物語を粉飾するキティーにもどういう立ち位置で見てあげればいいのか逡巡してしまう。同情もするし軽蔑もするし、よかったね、とも思うし、そのままでいいのか、おい、とも思う。それにしても妊婦がスタウトをがぶ飲みして嘔吐って、これもアイルランドならではなんでしょうか。それとも、お腹の子供を可愛いと思えないキティーの心理がそうさせてるんでしょうか。堕胎が罪であるというカトリックの教えが色濃く残っているという背景は知っているほうが、じわっとわかりやすいかも。
『アトラクタ』年老いた独身の女教師が、ある新聞記事を読んだことをきっかけにして、自分の過去の経験、見聞きして来たことを教室で子供たちに語る。教科書に載っていることではなく、自分にしか語り得ないことを語って聞かせることは、子供たちにとってもだけれど、彼女自身にとっても必要なことだったのかもしれない。そしてなによりも、アイルランド紛争に関しては、通り一遍のことは知っているつもりでいるわたしのような読者にとって。これってなんでもそうで、当事者の言葉は、教科書よりも重い。これを読んで、日本で先の大戦を生き抜いた人々がもうすぐいなくなってしまう焦燥を感じてしまったのは、唐突だろうか。子どもの親たちからのクレームによって彼女のリタイアが早まってしまったという皮肉なエンディングには不条理を感じるけれど、日本でも同じことをすれば子供たちやその親たちがアトラクタの話を聞いて奇異な印象を受けたのと同様な受け止め方をするかもしれない。にしても、まずは心に引っかかるということが大事なんだと思う。それは決して「昔話」ではないのだから。わたしはアトラクタに「よくやったね」と言ってあげたい。
『秋の日差し』牧師さんなのに、奥さんが亡くなって天に召されたことを受け入れられない、という設定がまず面白くて好き。神に仕えることを仕事にしていても、彼が神というわけではないので、悲しんだり心配したり疑心暗鬼になったりどうしていいのかわからなくなったりするのですね。人間だもの。4人の娘のうち、唯一未婚の末娘がフィアンセを連れて帰ってくるのだけれど、その男のことが気に入らないし信じられないし、そのことについて罪深いと自分を断罪するようなこともなくて、牧師さんだからこそなおさらその普通の人っぽさが、なんとなく愛おしくなってしまう。この物語も、長いアイルランド紛争が背景にあるのだけれど、メインは大事な伴侶を失くしたときの喪失感とそこからの脱却がテーマなのかな。それを静かに描いている。奥さんが生きていたらなんと言っていたか、どうしていたかを引き寄せて自分のものにできたとき初めて彼女の死がすうっと遠ざかる感じ。
『哀悼』孤独で、職場ではいじめられ、差別される無名の青年が、爆弾テロに加担させられそうになるその過程が淡々と描かれている。なるほど自爆するテロリストは、こうして産み出されるのかもしれないと思わされるリアルな描写。でも、人生の根幹になるべきは、ヒーローになる高揚感なんかの中にあるのではなくて、帰郷後に友から聞く子沢山自慢のようなものの中にあるのかもしれないということなのかな。幸不幸ということとはべつに。これはイングランドにおけるアイルランド人差別の根深さ、内戦が与える人々への心的影響の、表面からは見えない深刻さがなければ描けない物語だけれど、どんな社会においても、少なからず言えることだと思う。道を誤っていたら(物理的にも精神的にも)死んでいたかもしれない自分への哀悼。人はひとつの人生しか送れないという、人生の岐路のようなものや、やり直しの効かなさや、背負う秘密の重さを感じるのは、『女裁縫師の子供』とシンクロする。
『パラダイスラウンジ』小さなホテルのラウンジに偶然に居合わせる、若い不倫カップルと、常連の独身老女とその友人夫婦という3人グループ。そのかつて美しかったであろう老女はきれいにおしゃれして友人夫婦と定期的にお喋りを楽しむためにラウンジにやってくるだけれど、この日、旅行者カップルを見て彼女はすぐに不倫と見抜く。不倫カップルの方はじつはお別れ旅行なんだけど、女性の方は旅行に来てしまったことを少しずつ後悔し始めていて、ラウンジで飲んでいるうちにその後悔の気持ちと男への嫌悪を募らせていく。そろそろ部屋に帰りたい男とそれを少しでも遅らせたい女の描写が面白い。男のサインに気づかないふりをして「今日はとことん飲むわよ」的な。自分に向かってる老女の視線に気づいた女は、老女たち3人にお酒を奢る。「あちらのお客様へ」っていうやつですね。グラスを持ち上げてお礼をする3人を見て女は老女の事情を察する。『察する」っていう表現は正確じゃないな。そのテーブルから「立ちのぼる」感じの描き方がとてもいい。老女の涙で終わるのだけれど、わたしも思わず落涙。そしてこの不倫カップルのこの後をあれこれ想像する。何としてでも男の思い通りにならないで、と願いつつ、どうやってそうするかな、とか、欲望は欲望で、それはそれ、なのかな、とか。女性二人が質は違うけど、それぞれにやるせない恋をしながら、お互いの恋を美化して妄想するところなんかも、女性にはあるあるなのかな。どちらの妄想もわたしはとっても好きだけど。妄想はいつも美しいのです。妄想はね。美しき誤解。
完璧にプラトニックな愛が長年成立してきたということがリアルかどうか、女が欲望だけのために「さよなら旅行」が出来るものなのかどうか。そこはこの短編が残す宿題。
『ふたりしてここへやってきたのはさよならを言うためじゃなくて、最後にもういっぺん不貞を繰り返すためなのよーーー彼女は自分にもう一度言って聞かせた。いつもそうだったみたいに、今晩も男と女の楽しみを味わうでしょう。でもその楽しみは、かつて愛があった頃の喜びとは似ても似つかないもの。こんなところへ来るんじゃなかった。もっときれいなさよならのしかたがあったはずだ。でもふいに、パラダイスラウンジっていうばかばかしい名前の場所はふたりにぴったりな気がした。薄汚れた壁紙と、誰が使ったかわからないピンク色のへたった石鹸のある寝室で、身体だけをつなぐ。汚い週末ーーーベアトリスはまたそう考えた。愛がなくなった今、残っているのは裏切りと嘘と、盗んでいたものが積み重なったゴミの山と、平凡すぎるこの欲望だけ。』
『音楽』真実を話すことによって、話す側も聞く側も幸せにならないとわかっているとき、その真実はしまわれたままでいるべきか、それでも発せられるべきか? そのダメージが計り知れない場合は? おばさんは真実を告白してはいけなかったんじゃないかと思うのは簡単だけれど、神父とおばさんの秘密は、敬虔な信者である彼女にとってひとりで背負うには重過ぎたんだろうと思うし、カトリックが懺悔や告解といった儀礼を持つ宗教だということも大きいと思う。どちらが正しいかは、わからない。でも、ジャスティンを深く傷つけ、生きる希望を奪ったおばさんに「真実は何よりも大切」と泣きながらも彼に「行かないで」と言わせた自己欺瞞は、神父との交流をも貶めていると、わたしは思う。
『見込み薄』もし2人がこのあと再会したとしても、彼女が彼からお金を騙し取ったという事実は消えない。そこはどう折り合いをつけていくんだろう。女の視点と男の視点が交互に描かれていて、女の目的が少しずつ明らかになっていくのと、男の気持ちが少しずつ女に傾いていくのが並行して描かれてる。この場合、二人が幸せになるためには、女が「こんな人生も悪くないかもしれない」ではなくて、心から悔いて男と一緒になることを切望しなくちゃいけないんじゃないかと思う。もちろん二人には幸せになってほしいと思う。紛争や戦争の下でいちばん大事なのは、身近に愛しあえる人がいるかどうかだと思うから。手紙を書く女に注がれるトレヴァー の優しい視線にもいいエンディングを予感させる。いずれにしてもこんな風にあれこれと想像できるのは、お話のオチが書かれていないからですね。っていうか、人生にオチなんてないのか。生きてる限り、何が起こるかわからない。
『聖人たち』老いた主人公のかつての屋敷にいた使用人の女性が危篤になって、主人公が病院に訪ねていき最期を看取る話なんだけど、その女性の起こした奇跡やら聖人っぷりを修道女たちから聞いてもプロテスタントである主人公にはピンと来ない。しかし、アイルランドからイタリアに帰ってから、夢によって彼の住所を知り得たという話、毎年送られてきていたクリスマスカード、かつて紛争によって焼け落ちた屋敷へ彼をいざなったこと、古の日々を思い出させ硬くなっていた心を解き緩めさせ、母親が死んで以来流したことのなかった涙を流させたこと。これら全てが、彼女の起こした奇跡だということに気付き、光を纏った彼女が見えた、という美しいエンディング。なんというカタルシスか、短編集の最後を飾るに相応しいお話しをありがとう、と感謝でいっぱいになってしまった。一人称で語られ、多くの物を見てきた主人公と、読んでいるに表紙の折り返しのところについてるトレヴァー の顔写真がずっとダブってた。
最後の『聖人たち』は、あまりにも好きで、それと、この本自体を読み終えるのが惜しくて、2度読んでしまった。
栩木伸明さんによる翻訳もあとがきもよかった。